昭和45年03月16日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言う事は道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
ま確かにこのとおりですね。神の一言は千両の金にも変えられんと、というほどしのこと、内容を持ったものなんですね。教えと言うのは。ところが私どもはそれを軽く見たり、またはそれを行じなかったりするところにおかげが受けられんのです。ですからほんとにお取次ぎを願い、お取次ぎを頂くということは、そういうことだと思うんです。ね、皆さんが、いろんな願い事をなさいます。で、
それをお取次ぎを願われるわけです。ですからそれに対してこんだ、お取次ぎを頂いて帰らなければなりません。神の言う事はそれこそ、一言でも聞き漏らすまい、神の一言は、ね、有り難く頂いて帰れば、舟にも車にも積めれぬ程の、神徳があるものだと、一つ思うて有り難く頂いて帰らなければならない。所が中々まぁ神の言うた事は道で落してしもうてと仰る様に、本当に道で落としてしもうておる所に、本当のおかげを受けられんのですね。そこでこれは私、私どもそれはほんとに実感致します。
神の一言は千両の金にも変えられないと、本当に素晴らしいおかげの内容というものを、持っておるので御座いますがですね。今日は私は心の内を改める事が第一なりとか、例えば仰っておられますね。そういうふうに神の一言を千両の金にも変えられないほどしの、勿体ないものを頂きながら、それをたとえば、はぁそうだというなら分りながら、それをに右左にする様な事になったら、ど言う事になるでしょうかね。
神の一言は千両にも変えがたいほどしの、大変な事なのですから、それを今度は反古にする、そうだと知っておりながらそれを反古にする。私はその千両の一言にも変えられないほどしのことがある、それには必ず反対があると思うです。まそれを俗に言うならば、おかげを頂くとか、または罰かぶったとかと言うような言葉で申しますね。金光様の御信心には罰は、罰かぶる、そんなことはありゃしませんけどです、ね、
千両の金にも変えがたいほどしの大変な内容を持った事でしょう。それをこんだ反対にしたらどう言う事になるかと。やっぱお気付を覚悟しなきゃならんと思うですね。だからここは簡単には聞いてはならない所だと言う事が分かりますよ。本当に有難く頂いて帰ればですね、おかげ頂きますもんね。あぁそうだと本当に頂いて帰れば、本当に舟にも車にも積めぬほどの神徳があると、おかげだけではない。その神徳を感ずることができるおかげを受けられるですね。
だからそれとは反対のことに、私はなった時の事を思うてみなければいけないと、ね。これは後に後で申しますが、そのそこの所がはっきり分って来る様になる、くればくるほど、信心が進めば進むほどそこん所は激しくなると思うですね。例えば私がそれを神様は有難い方じゃなぁと分らして頂くと同時にね、神様は恐い方じゃなと分らなければ、ほんとに神様が分ったと言えません。
神様ちゃ有難いお方じゃと、いうな撫でたり摩ったりして下さる事だけじゃないと。ね、言うなら母性愛的なもの、父性愛的なもの、その両面を持ち備えて御座るのが天地乃親神様だと。ですから分らない子供の時には、そんな厳しい事が出て来る筈はないですね。言うならある場合には甘やかし放題の様な事もありましょう。けれども信心が段々進んで参りまして分って参りまして、ね、
私はそこん所が言うて聞かせても、言うて聞かしても分らん時に、矢張りこぶしを振り上げられる様な事にも成って来るのじゃないでしょうかね。だから信心の有り難さというものはですね、あのそこが分らなきゃ実際有り難くないとですよ。ま例えて言うとですよ、自分な信心しとりますというその自己満足的なものですかね。ね、もう動きも何もない、も、熱もない。ね、冷え切った様な、例えば電車なら電車の動いておる私は電車と、もう電気から離れておる電車は形は同じであっても、ね。
ですからああ言うよくありますよ、ね、あの生き生きとしたごひれいを頂いておる教会では、生き生きとしたお気付が必ずあります。それはその電車が動いておるからですよ。途中で飛び降りる様な事するから怪我する訳です。けれどもですねもう言うならばですね、あのもうおかげなんかて言う事を可笑しい位な事を言う、おかげと言う事じゃないと言った様な事を言う様な教会になるとですね、もう生きた働きもないです。
その代わりに怪我もないです。こりゃもう絶対ですですからどちらがいいかと、私共はやっぱり間違い怪我する位なですね、おかげを頂いておると言う事が、私は有難い事じゃなかろうかとこう思う、ね。おかげおかげとどんどん進んでいけれる信心ですね。だから私は心の内を改める事だ第一なりと言う様なふうに最後には、まちょっと考えてみると取って着けた様な感じですけれども、そう言うておられる事はそんな事だと。
心の内を改め改めしていかなければですね、私は神の一言は、いちごんはそれこそ千両の金にも変えがたいほどしのものを頂いて信心が段々進んで行く。進んで行くと同時に、愈々改まりに改まって行かなければです、いけないと言う事を言うておられるんだというふうに思うです。神様はね私いつも思うんです。是は私の修行中の時分なんかそれをいつも感じたです。もう時々体が体全身がしびれてしまう様な事がありました。
私は今でも本当の事は分かりません。けれども口の中から酢ゆうなるです。私は電気にかかったという時にはこう言う事じゃなかろうかと思う様な事が、もう度々ありました。私はこう言うひとつの病気かと思いよった。けど矢張りその後の実感がです、はぁ是は神様のお働きをじかに頂きよるんだなと言うふうに感じておったんです。だから天地乃親神様と言う方は、私はですね、いうなら電気体の様な御方だと思うんです。
こりゃ私も分かりませんけども、私の体験から言うと。ですからその電気が様々な応用される時にです、ね、人間の知恵力じゃどうにも出来ない様な事がです、ね、どんどん出けて行く様なおかげになって来る様にです。だからひとつ間違うとその電気に例えば、その漏電しておる所に触れどもしてご覧なさい、いちころでしょうが。確かにそういうあの天地の芯というものはそういうものです。天地乃神というものは。ね、
ですから私共が日頃御神意に叶う生き方、道理に合うた生き方をさして頂いて、信心をどんどん進めて行く事によってです、今までではどうにもできなかった事柄、例えて言うとです、ね、昔は木挽きさんがこうやって大きな木をこうやって製材してましたよ、何日がかりでね。それをあなた製材にかけましたら、スイッチいっちょ押したら、あっという間にわいてしますでしょうが。同じですおかげを頂くと言う事は。ね、
だから本当にそこん所が分らして頂いて、そこの所謂神の一言は千両の金にも代えがたいほどしのものであるとしてです、私共が慎重に丁重にですね、頂いて行く事によって、信心が進むんです。所謂神様に近付いていけれるのです。そこでですなら是は神様に近付いて近づいてです、ね、本当に近づいていく人がです、例えばならひとつ間違うと、だから大変これはひどいお気付に成る事も考えられます。
それは例は沢山あることです。たとえば教祖なんかでもですね、神様からね、みんなが自分のことを生神生神と言うけれども、ね、いつ神様から暇が出るやら分らん、と言ったような、そのお言葉を漏らしておられるところは、そういうことなんです。そういうですね、神様のもうとにかく有り難い神様であるとろいうこと同時に、また怖い神様だといったようなことも十分知っておられたんだと私は思います。
今日は少し時間が御座いませんから、まあのこの位にさせて頂きたいと思いますけれどもですね、どうぞ一つ千両の金にも替え難い程しのものに頂いて行くと言う事、ね、同時にね、それにはね必ず裏があると言う事。だから裏と言うのはですよ、例えばね横着な事、我儘な事、ね、分っておる事を平気で、例えばねお参りもしないで、その例えば道に乗りとった生き方をしておるものが。
道に外れた生き方をさして頂いたり、する事はです、千両の金にも替え難いほどしの大変な事のその裏があると言う事を私は知らにゃいけません。ただし是は神様もよう分らん、信心もまだよう分っとらん、程度が低い子供の場合であれば是は問題ないです。又は全然動きのない教会とでもいおうかね、いわゆる電車といや神様との本当の関係を作っていない、ただがらんどうの様な、言うなら電車の箱だけの様なもので。
そのん中に入とって自分な信心しとりますと、動きの何もおらんものに乗ってただその自己満足にである人の上には、今日の御理解なんかは全然無用であります。動いとらん代わりにはダッシュもないですそんかわり。ね、降りたっちゃ怪我はせんです。ハー急行電車から飛び降りてんなさい怪我するけん必ず。ね、そう言う様な所もですね、私は心得させてもろうて、信心を進めて行く所に、神様ちゃ有難いなぁと分らして頂くと同時に、そして神様はね、決して一辺ぶっすりに下さる様な事は決してありません。
人間じゃけんどこに間違いがあるやら分りませんけども、それにはほれほれ間違いよりゃせんか、間違いよりゃせんかと言った様なお気付を下さった上にも下さって、ね。そうして言うこと聞かんと、矢張りこの裏があると言う事が、一つ思うとかにゃいけません。ね、だからですね日々の改まりが第一、というその改まる所に愈々焦点を置いとかんと、その感度が非常に薄くなるです。
神様をじかに頂けん様になって来るです。お気付をお気付と、感じん様になって来るです。是は大変な事だと思いますね。信心を、愈々進めて行こうという者の、私は心がけておかなければならない事だと思います。只是をま本当にそうじゃんな、と、御教えを頂いてもうちで帰ってもう忘れちしもうちから、おかげ頂けんはずだな、と言うふうな程度に頂いてもいいです。
だから今日の教えはほんとに頂いて、一言でも本気で守らせて頂こうと言う事になりゃね、それでやはり舟にも車にも積めぬ程の神徳が、次第次第に頂けてくるようになります。ですからそういう見安う、見安う頂いても良いでしょう。けれども例えば厳しゅう、例えば、今日日々の改まりが第一なり、などと言うところを頂きますとですね、これは所謂千両の金にも代えがたいほどしの。
大変な事がらを、疎かにしたらですね。その大変な千両の金にも、代えがたいほどしの、その反対、裏目と言うのがあるということを、知らなければなりません。だから、最後に神に一心とは、迷いのないことぞと言うておられます。ね、お互い長年信心させて頂きよって、あれこれと迷うようなことがあっては、これは本当だと、確信することろを、ほんとに行じ抜いて行かなければ。
いけんのでございます。今日は心の内を改めることが第一なりと、ね。改めないこう言うことじゃいかん、こう言う事じゃいかんと思いながらです、それが続けられていくところに、すっきりとしたおかげにもならんし、またそれが溜まりに溜まって、言うならお気付にも成って来る事を、私も体験から色々ここん所分らして頂いております。
どうぞよろしくお願い致します。